信用度

一年間、いや9ヶ月の関係ではやはり信用は生まれない。

ましてや、性別が異なら場合は尚更である。

僕は遮断を求めた。

女は悲しがらず、それに応じた。

簡単な事だ。

つまり、お互い求めていたものの答えはそこにあった。

 

僕は好きだった、いや大好きだったが、それは嘘だったのかもしれない。

 

見向きもされない状態に嫌気がさしていたのかもしれない。

僕は見返してやる。そんな気持ちになった。

一年後、いや五年後。

この答えが間違っていた事を思い知らしめたい。

 

 

身近な発見

地域コミュニティ施設に訪れる機会があり、私はその施設の利用者の年齢層に着目した。

そしてそこで日本社会の現状を実体として捉えることができた。日々、マスメディアの報道で耳にする高齢化社会問題。我が国もすでに1994年に高齢化社会となり、さらには2007年に人口の21%が高齢者である超高齢社会に突入したのだ。それが意味することー。つまり、我が国は高齢者のポピュリズムに支配されていると言えるかもしれない。

 

ミルの「多数の暴政」はまさに、現代日本においては選挙によって形而上的に表面化している。高齢者という多数者が選挙によって合法的支配を行い、むろん政府は多数者に対して有効的であるマニフェストを掲げる。このwin-winの関係が築かれた現状は変わることはないだろう。むしろ、それはさらに加速していくだろう。

 

近代国家は絶対王政を非合法的支配と称し、民衆のデモクラシーによって国家からの自由を国民は獲得し現代に至っている。そしてそれは20世紀以降は福祉国家思想に変貌を遂げ、国家が国民(ここでの国民は日本に限らない)に対して社会権という形で支援することが広まった。

つまり、言い換えると、我々の生きる現代は国民が国家を支配するという新たな時代になったと言えるだろう。その象徴がまさに高齢者という生きた形なのである。 

 

 

 

どっちが本物?

私はふと疑問に思う。

カメラで撮影する月と肉眼で見る月では大きさに違いがあることに無邪気な違和感を感じられずにはいられなかった。違いがあるならきっとどちらかが虚像なのだろうと思う。私は肉眼で見たものを全て正しいとは思わない。なぜなら錯覚という概念が存在するからだ。ただ、錯覚はこういった場合には該当しないのが一般的な科学常識である。しかし、仮にこの事象に錯覚として認識させてみると筋は通らなくないとも思えるのが違和感を感じさせる原因である。そうなると見ているもの全てが錯覚であるとも言えてしまうので破綻した理論を展開するだけになるが、逆説的発想であるならどちらも錯覚であればどちらも虚像ではないとも言えるかもしれない。つまり、モノを見るときに肉眼というフィルターを通して認識を始めるのであるならその時点でそれはもう錯覚なのである。すなはち人は錯覚を真実と捉えているのだ。

 

論点のズレ

企画を立案した人物が誰とかはどうでもいいんです。そもそも行事は強制ではないので、意欲の差が出てしまうのは想定できると思います。それを踏まえて立案したのかが疑問です。机上論なら誰だって作ることはできますからね。企画内容について文句は言いません。しかし、それを通すまでのプロセスが支離滅裂になっていて理解と行動に遅れが発生しているのが現実なのではないかと思います。企画について議論をすることなく半ば強制的に決まったことも意欲の低下に繋がっていると思いますしね。

そして

これに追い討ちをかける出来事が今日ありました。 

計画の時点で無理があったのではないかという意見が出ました。これは、現実的な話をすると本当にその通りです。ただこの意見に対して、どうやらある人物の癇に障ったようで感情的になり論点のズレが生まれてしまいました。一方的に主観的な精神論と感情論を語る姿はまさに独裁者そのもの。言論統制され、意見を述べることができない私たちは結局従うしかないのかもしれないですね。

困ったものです。